「はじめに」と「指針」は言わば「序章」でしたが、今後具体的「本編」に移り、ICUの歴史を再考していきたいと思います。

まず、「能研テスト」問題が発端となって1967(昭和42年)年2月10日に本館が「バリケード封鎖」されて学生が立て籠もった時期から見ていきます。(その前の生協問題や、ICU設立時の理念の問題にもこの先立ち戻ることがあるでしょう)本館へのろう城が起こるひと月ほど前に「国際基督教大学学生新聞」が1月12日付号外で12月2日の緊急SFC(Students and Faculty Council 学生教授協議会)を紙上公開しており、そこでの討論を次回でご紹介します。(Students and Faculty Councilは、語学研修所からのICU献学(創立)の翌年、教養学部開学の1953年から67年まで?毎学期開催されていたそうです)まずは1966、67年頃がどのような時代であったか、しばし時空を越えて、次回(1967年1月12日の上記学生新聞号外での紙上討論再録とそれへの考察)の「予告編」の旅におつきあいください。

1966、67年頃はどのような時代だったか

この予告編では、写真や当時はやった言葉や事象、ICUに関する新聞記事等からこの時代を振り返ってみたいと思います。

 

下の2枚の写真は上野駅、1967(昭和42)年の8月12日(土)午後11時30分発の東北線回り青森行き特急への乗車場面と車内の様子を捉えた写真。(撮影者木村惠一)(2枚とも、JCII PHOTO SALON での1992年の木村氏をはじめとする10人の写真家の展覧会、「東京オリンピックの時代ー1964年を中心にー」で印刷された写真集元画像からの許可を得た転載です。)

 

   木村惠一 © 1967  「帰省列車」

  木村惠一  © 1967 「帰省列車」

 

なお、この「帰省列車」の撮影者、木村惠一氏の個展「木村惠一写真展 車椅子からの・・・」が東京・銀座のキャノンギャラリー(CANON GALLERY)で2018年4月5日~11日、名古屋のキャノンギャラリーで4月26日~5月9日、大阪のキャノンギャラリーで5月17日~23日に開催されました。

 

 

 

 これらの写真撮影者の木村氏に直接伺ったところ、上野駅では上の1枚目の撮影前にやはり別の窓からの乗り込みがあったとのことです。当時は前売り券もなく泊まり込み乗車待ちの人達用のテントが上野公園口側に設置されたこと、また上の2枚目の写真については、車内に入っても脚立はとても持ち込めないので、靴を脱いで椅子の肘掛に立ちカメラを上に掲げて撮ったと伺いました。前年より、木村氏はフリーランスながらフォトルポルタージュを連載していたので、その「週刊現代」編集部にこれらの写真も持ち込み、タイムリーな写真として使われました。

(参考までに、別の撮影者により毎日新聞でも、同じ日1967年8月12日大阪駅で駅員に列車の窓から中に入れてもらう女性の写真が撮られています。https://mainichi.jp/articles/20170726/oog/00m/040/088000c←毎日新聞サイトの「関西50年」より)

 

 冒頭の乗り込み場面の写真では、車内の女性が困ったような顔をしています。駅員の後ろで苦笑している女性はそのあとに窓から車内に押し込んでもらうのでしょうか。これらの写真が撮られた3年前には東海道新幹線が開業していましたが、他の路線はそのような恩恵もありませんでした。若者人口が現在よりずっと多かった当時、なんとしてもその日にその列車で帰らなければという人たちのこうした場面も大都会の駅で見られたようです。その頃に上野駅からの帰省をされた先輩につてをたどって伺った限りではそうした「窓から乗車」の場面に出会ったことはなかったそうですが、この年お盆直前の土曜の晩は空前の帰省ラッシュが見込まれていたようです。

 

 第一次ベビーブームが1947年から1949年まで(第2次が1971年から1974年)で、その最大の突出年の1949年生れと1947年生れがそれぞれ18歳、20歳となった年がこの1967年でした。彼らの突出ぶりを人口ピラミッド(2005年)で見ておきましょう。(ここをクリックしてグラフ参照)(出典はジャーナリスト坂本衛氏のサイト「すべてを疑え!! MAMO'sSite」「団塊の世代の研究(年表)

 

 現在では帰省時期が分散され、彼らの子供や孫が家族連れで帰省する光景も見られますが、当時は若者が全年齢中で占める比率が非常に高くなり、彼らの上の年代で、「高度経済成長」(1955~1973年あたりと言われています)の中、地方から大都市に家族を連れて移ってきた人々も多くなっていた時期でした。

 

 車内場面写真の人々の中で表情が見えている数人からの印象では、このぎゅうぎゅう詰めの車内でも彼らの表情は明るく感じられます。その笑顔の相手は一緒に帰省列車に乗りこんだ兄弟姉妹や同郷の友、あるいは恋人かもしれません。撮影の時に目撃されたのは若者が圧倒的だったようですが、中には年配者や子供連れの姿も見られたそうです。

  

クーラーの代わりに扇風機が天井で回り、網棚の上には数多くのトランク、中には唐草模様の風呂敷包み、かと思ったら、よくみるとこれは唐草模様の紙バッグのようです。他には楽器ケースらしきものもあります。髪型や服装を見ると、例えばこの10年前(1957年)頃の人々の写真と比べても(これは私見ですが)しゃれて小ざっぱりしているように思えます。「…都会の喧噪のなかで日増しに人間的な"憩い"の場を奪われていく若者たちの帰郷というほんのささやかな願いをかなえるにも蒸し風呂のような列車で十数時間の難行苦行が待っている。」と撮影者木村惠一氏は記しています。

 

車内には「…十和田…陸中海岸へ」という写真付き観光ポスター、細い縞柄のシャツを着た画面下寄り中央の男性が右手に丸めて持っている雑誌裏表紙(?)にはイラストとポップな字体。(JCII-日本カメラ財団-の方のご指摘どおり、逆さになった文字は「本日のプレゼント」と読めます。イラストは脚のついたテレビの画面からキャラクターが飛び出しているように見えます。)

 

高度経済成長の真っ只中で、生活の向上が多くの国民に実感されたこの時期に当時の若者はどんなことを考えていたのでしょうか?

1966年の出来事

『暮らしの年表 流行語100年』講談社 2011年 刊 (130,131頁)より

 

この見開きの写真の代わりに、精選された出来事とICUでの出来事や他大学の動きなども対比できる1966年の年表にすることを考えています。予告編でなく次回、1967年1月12日付「国際基督教大学新聞号外」ご紹介時、その年表とこれを差し換え掲載予定。

 当時の言葉・事象から

 

 

3C(新 三種の神器):

それまでの「電気冷蔵庫、電気洗濯機、テレビ」の「三種の神器」に代わり、三つのC、「カー、クーラー、カラーテレビ」が「新 三種の神器」と呼ばれた。3C時代などというように使われたと『暮らしの年表 流行語 100年』(講談社 2011年 発行)に書かれている。昭和33年(1958年)頃の東京を舞台にした映画『Always 三丁目の夕日』は、まだ「旧」三種の神器の時代の話であるが、その後の技術革新は目覚ましく、車、エアコン、カラーテレビが急速に普及していったのが、1966、67年頃であった。(1960年にカラーテレビ放送開始、1961年に「ルームクーラー」に暖房機能を付けた「ルームエアコン」が発売されている。)

 

 

期待される人間像:

 1966年(昭和41年)10月31日に発表された中央教育審議会の答申(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chuuou/toushin/661001.htm#3 文部科学省ホームページより)の「後期中等教育の拡充整備について」の 中央教育審議会の答申に、以下のような記述がある。

この中で使われた言葉「期待される人間像」はマスコミなどでも大きく取り上げられ、話題になり議論を呼んだ。

 

 以下「後期中等教育の拡充整備について」中央教育審議会答申(第一の2)より引用

「いうまでもなく、教育は人格の完成をめざすものであり,人格こそ,人間のさまざまな資質・能力を統一する本質的な価値である。すなわち,教育の目的は,国家社会の要請に応じて人間能力を開発するばかりでなく、国家社会を形成する主体としての人間そのものを育成することにある。それでは、主体としての人間の在り方について、我々はどのような理想像を描くことができるであろうか。そのような理想像は、国民各個人がみずからの人間形成の目標として希求するものであるとともに、人間形成を媒介する教育の仕事に従事する者が教育活動の指針とするにふさわしいものでなければならない。それを、われわれは期待される人間像と呼ぶ。教員の究極の理想を探求することは、このような期待される人間像を追及することにほかならない。

 

フォークソング

 

 元来は、英語で「民謡」を表すfolk songが、社会の中で独特のジャンルとして発展したのが、1960年代だった。まずはアメリカでのフォークソングのヒットから例をあげたい。ピート・シーガー作曲(1955年)の「花はどこへ行った(Where Have All the Flowers Gone?)」が1961年にキングストントリオによってヒット。ジョーン・バエズはピート・シーガーが広めたゴスペルの「We Shall Overcome」の歌い手としても有名で、聴衆にボブ・ディランを紹介した人物でもある。やがて1963年8月のワシントン大行進での彼女の「We Shall Overcome」とディランの「風に吹かれて(Blowing in the Wind)」は世界中に知られることになり、前者は特に米国内の黒人の公民権を求める運動で歌われ始め、どちらもベトナム戦争反対運動の中ではよく歌われた。(ベトナム戦争は1964年のトンキン湾事件を口実にした翌65年2月のアメリカの北爆―北ベトナムへの空爆ー開始で始まった。)

 

 日本では、1965(昭和40)年に日劇(正式名は日本劇場で現在の有楽町マリオンの場所にあった)でフォークソングフェスティバルが開催される。1966年はマイク真木が「バラが咲いた」、高石ともやが「かごの鳥ブルース」でレコードデビュー、1967年には加藤和彦、北山修、はしだのりひこ、の3人組、フォーク・クルセーダーズの「帰ってきたヨッパライ」、森山良子の「この広い世界いっぱい」がヒットした。1968年には、岡林信康の「山谷ブルース」、同年の高田渡の「自衛隊に入ろう」など、社会性、政治性の強いフォークソングも多く発表されていく。この頃の若者とフォークソングは切ってもきれない関係にあったようである。(ICU構内でもこうした歌を歌う学生の輪が見られただろうか)1970年頃まではこうしたプロテストソングがフォークソングの中で大きな位置をしめていたが、その後日常生活を歌うフォークソングが多くなっていく。

また、1967(昭和42)年より1969(昭和44)年頃にかけて流行したエレキギターによる「グループサウンズ」や、当時の歌謡曲にも、その前後の時期とこの時期との違いをみつけることができるかもしれない。

 

 (ここまで 文責 24期 ID80 村田広平)

 

 

1967年2月、マスコミに報じられたICUに関する記事

毎日新聞 1967年2月11日(左:札幌版 右:東京版)の記事(『ICU学園紛争 その問題点をこう考える 同窓生ティーチイン報告書 1967年6月24日~25日』 国際基督教大学同窓会発行 の巻末資料より)

 

次回の掲載(1967年1月12日号外の国際基督教大学新聞抜粋とそれについての考察)にご期待ください!