年表で振り返るICUの学生運動

入力担当者(村田)単純表記ミスを6月21日夕方訂正いたしました。大変失礼いたしました。

 

執筆者自身(根本)の補足・表現変更事項を加えました。(6月22日)

<第1回>

1966~69年のICU

<文責:根本敬 24期 1980年3月卒業>

 国際基督教大学(ICU)における学生運動のピークは、1967年1月から4月にかけて起きた能力開発研究所の適性検査(能研テスト)を入試の一部に採用することを大学が決定したことに対する反対運動(「能研闘争」)と、その時に除籍や停学に処せられた学生たち(計75名)の処分撤回を目指した1969年2月から10月にかけての「三項目闘争」の二つに象徴されます。ちょうど11期生から15期生がICUで過ごした時期です。もちろんその前後の期の中にもこれらの運動に関与したICU生は多くいます。

 この間、ICUは授業が全く行えないか、通常の体制ではおこなえない事態に陥り、学長も短期で何人も変わり、教授会も混乱を極め、そのなかで学生はもちろんのこと、多くの教員や事務職員もICUの在り方をめぐってさまざまに考え悩み、激しくぶつかり、苦悩の時を送りました。

 本欄では3回に分けて、ICUの学生運動を年表形式で振り返ることにします。いうまでもなく、ことの本質を理解するためには年表で振り返るだけでは不十分ですが、まずはこの時代の「基礎的な知識」をまとめておくという意味で、あえて年表という形式をとってみました。

 

 まず第1回目は、ICU学生運動がピークを迎える前段階にあたる1966年から、機動隊の導入や鉄板フェンスの設置を経て授業再開が強行される1969年末ころまでを見ていきます。つづいて第2回目はこの時代(1960年代)の日本のほかの大学における学生運動の様子を確認し、第3回目では当時の世相(社会、政治、文化)を追ってみることにします。

 

 なお、年表をお読みいただく前に、いくつか重要な用語を解説しておきます。

 

 (1)ICUの学生運動が激しさを一気に増した「能研闘争」については、ここでは「能力開発研究所」について簡潔に説明しておきます。同研究所は1963年に政府の支援のもとに設置され、ICU創立時の理事だった高木貞二氏(元東京女子大学長)が初代研究所長を務めました。目的は全国の高校生がどこに住んでいても受験できる大学進学のための適正検査(能研テスト)を実施し、その得点結果を書く大学が自由に入学者選抜に利用できることを目指しました。1950年代に一時実施されていた進学適性検査と似ています。しかし、このテストを採用した大学は限られ、「18歳の人間を進学組と就職組に区別するための道具」だという反発もあって1968年には廃止されましたが、ICUは最初期から同研究所の適性検査開発にかかわっていました。そのため、1967年入試(同年4月入学生の選抜)に向けて採用を決定しましたが、年表に示したように学生側の強い反発に遭い、大学側は導入をあきらめました。

 

 (2)除籍という聞きなれない用語が登場しますが、これは退学処分より厳しい「入学時に遡って学生としての身分をはく奪する」ことで、「ICUに一切存在しなかった学生」にされることを意味します。

 

 (3)全学共闘会議(全共闘)という用語も登場しますが、これは大学側が認めた制度上の学生自治組織が存在しないか、機能を停止した状況下において、学生側が自主的に集まって組織をつくり、自らの意思決定を通じ、大学側に一致して要求をおこなうための団体のことを指します。学生運動が激しさを増すにつれ、各大学に次々と生まれました。基本的に外部の政党組織や新左翼セクトから独立した団体でしたが、一部の大学では外部からの強い影響を受けた事例も見られました。

         

<ICUの学生運動>

[ピークに至る前段階]

1963年(学費値上げ反対闘争)

 4月  ICU学生会が学費値上げ反対を議論、一部学生が本館を占拠、ハンガーストライキ(絶食闘争)起きる(5月に収束)

 10月   初代総長(学長)の湯浅八郎氏、理事長に就任

1964年

 4月    学費値上げ実施

     ※新入生の12期生より、それまで年額1万2000円だった日本人学生の学費が2万円に増額。これも当時の私立大学の中では低額。

1965年(食堂値上げ反対、生協設置闘争)

 4月    食堂値上げ案に対するボイコット起きる(6月にも)

 10月  学生総会、生活協同組合(生協)設立を支持

     ※生協誘致運動は創立時からあり、この年、食堂の値上げ問題やD館内購買部の品ぞろえの悪さも、学生側が改めて生協の設立を強く求めた。

 

 11月  大学側、生協設立を不承認、一部学生が本館を占拠

 12月  学生会が全学スト案を否決。本館占拠はクリスマス前に解除。

 

 

[「能研闘争」期]

1966年

 5月  教授会が能力開発研究所の適性検査(能研テスト)を入試の一部に採用することを決定

 10月 理事会が受験料値上げを決定

 11月 学生会の役員に立候補者なし、自動消滅

 12月 学生教授協議会(SFC)を中心に、学内で能研テスト採用と受験料値上げをめぐる議論が活発化

1967年 

 1月 25日に能研テストの採用と受験料値上げの白紙撤回を求める反対者同盟が学生たちによって結成される

  2月 10日に約60名の学生が本館を占拠しバリケード封鎖、全学休講に

       20日、教授会は能研テスト導入に対する反省を公示

    22日に鵜飼学長が能研テストを利用せず、受験料も据え置くことを公示、

    しかし、本館占拠の学生は退去せず(入試は都内の法政大学などを借りて実施)

    28日、鵜飼学長が辞意を表明

  3月    1日、本館が使用できないため、理学館と教会堂を使って授業を再開、一部の学生たちはそれを妨害

    10日、大学側は本館占拠にかかわった中心的学生10名(のちに12名)を除籍、ほか63名を退学や停学等に処す

    16日、大学側と反対者同盟との討論会が開催される

    17日、本館占拠を解くため、大学側は、東京地裁八王子支部に仮処分を申請

 4月  10日、三鷹警察署から機動隊出動、仮処分執行、本館占拠学生を強制排除

    13日、辞任した鵜飼前学長にかわり、久武雅夫教授が学長事務取扱に就任

 7月  教養学部長に長(武田)清子教授、学生部長に秋田稔教授が就任

 11月 一部学生によるシーベリー礼拝堂他数か所に対する破壊行為が起きる

 

1968年 

 月 久武学長事務取扱が学長に就任

  6月 理学館開館

 ※このあと同年6月から翌69年1月にかけて、東京大学と日本大学において学生運動が激しさを増し、社会的注目を集める(詳しくは本欄の第2回目で取り扱う)

 

[「三項目闘争」期]

1969年

 2月  8日、大学がガードマンを増員

   27日、「三項目要求」を軸にICU全学共闘会議(全共闘)結成される

   ※三項目の内容

     1 ガードマン体制の即時撤廃

     2 教授会議事録の全面公開

     3 能研闘争の処分白紙撤回(処分された学生について、除籍者も含め全員を復学させ、その間の奨学金等の損失について大学側が補償する。能研テスト導入を決めた過程が誤りだったことを大学側が認める等)

 

 3月  13日、学生総会を開催、全共闘が大衆団交を通じて大学側に要求を行う代表権を獲得(=全共闘が学生側の「三項目闘争」の代表機関となる)

     15日と18日に行われた大衆団交で、大学執行部は「確認書1」「同2」を承認

     22日、久武学長、長(武田)教養学部長が、大衆団交方式は教員に自己批判を強制するため、「思想の自由と人権を侵害するもの」と主張し執行部を辞任、

    同日、秋田稔学生部長が学長代理に、渡辺保男教授が教養学部長代理に、小塩節教授が学生部長代理にそれぞれ就任して新執行部発足。同執行部は学生側に歩み寄り、教授会で「確認書1」「同2」を批准、さらにその日、3度目の大衆団交で「確認書3」を承認

    24日、教授会が「緊急時定足数」を議決の上、「確認書3」を批准

    ※教授会の定足数は構成員の3分の2であるが、学生運動に否定的な教員らが結成した「ICUを守る会」が教授会出席義務に反して欠席したため、この日の教授会は成立しない危機を迎えた。そのため秋田学長代理を中心とする執行部は非常事態とみなし定足数を2分の1に引き下げ、かつ重要事項の議決においては教授会構成員の9分の4(44.44%)以上の賛成を得れば可決とみなした。大衆団交で相互に承認した確認書を批准する必要に迫られる措置でだったが、上位法である「議事法」に反する議決方法の変更であっため、結果的に「非合法」であることを理事会から追及されることになった。

    25日、4度目の大衆団交がおこなわれ、双方で「確認書4」「同5」を承認

    26日、教授会で湯浅・坂本法律事務所による「鑑定書」が読み上げられる

    ※同「鑑定書」は教授会の求めに応じて提出されたもの。大衆団交で全共闘と大学執行部(=教授会が承認(一部批准)した「確認書」はいずれも法的に問題があり、理事会がそれらを不承認とすることを法律の専門家として提言。秋田学長代理を中心とする執行部は理事会からこの内容を事前に知らされていなかった。

    27日、教授会が「確認書4」「同5」を批准

    28日、5度目の大衆団交がおこなわれ、双方で「確認書6」「同7」を承認

    ※この間1966年の「能研闘争」における大学側の学生の処分にかかわった当時の学生部長(教育学科の小林哲也教授)に停職命令が出される。また、同年実施された能研供与による「等価テスト」の中に前年度の問題が含まれていた件の責任を問われ、教育学科の原一雄教授にも同様の命令が出された。両名に対する事実上の退職勧告だったとされるが、原教授は米国に研究滞在後、1971年4月に復職。

 4月  1日、教授会が「確認書6」「同7」を批准。    

          新年度に入っても授業は再開されず(本館、D館の封鎖続く)

     22日、理事会による「確認書」不承認の姿勢のもと、秋田学長代理が辞任、同学長代理を執行部は解体(このあと、全共闘との間に結んだ確認書はすべて無視されていく)

     26日、荻窪の日生会館で教授懇談会と教授会が開催される(2名の学生が介入)

     30日、麻布の国際文化会館で教授懇談会と教授会が開催されるも、約60名の学生が介入、学長代理を選出する手続きを行なえず

 

 5月  6日、学科長計6名を学長代理機関とすることが決定される

 6月  12日~13日、1泊2日で教授懇談会が八王子の大学セミナーハウスで行われる

 8月  19日、中島省吾教授が学長代理に就任

 10月   13日、理事会が大学執行部に授業再開を要請

     16日、三宅彰教授が学長事務取扱に就任

     20日、機動隊導入、封鎖を解除、過剰な排除のなかで無防備の学生が複数負傷

     25日、大学執行部、本館、理学館、D館を含む「教育区域」全域に高さ3メートルほどの鉄板フェンスを設置して取り囲み、学生が自由に出入りできないようにする(寮と食堂は除外)

     27日、授業再開、大学執行部は機動隊を導入して受講生の出入りを監視、これに反対するデモ隊に負傷者が出る

    ※全共闘は授業再開に反発、授業登録拒否闘争を展開。そのため授業再開に応じたのは当初、全学生の半数程度(徐々に増えていく)

    28日、機動隊が全共闘議長を含む学生4名を逮捕

   この日、湯浅理事長は事態収拾の最終責任を負うと言明

 11月 6日、教授会開催(この段階で教授会は理事会の指示に従う姿勢を明確化)

   22日、大学執行部、学生の保護者らに向けて説明会を開催(保護者から批判続出)

 12月 22日、理事会から授業拒否を続ける田川講師と彌永講師に休職命令が出される(両講師は翌年1月20日に抗議文書を公開、その中で授業拒否の理由を説明)

 

1970年

 

 1月 26日、全共闘は登録拒否闘争の敗北を認め、撤回する

 3月 19日、大学執行部は前年10月28日逮捕されたICU全共闘議長ら4名を除籍

 4月 10日、授業拒否を続けた田川講師と彌永講師の両教員が免職となる

 

 5月 19日、ICU全共闘が解散

 

 

今回記事は’67学生新聞号外分析までの予告編5に該当します